■雲仙/平成新山 南面大ガレ(大火砕流跡)

2006年6月3日
鮎島仁助朗
 6月3日という日付で何を思うだろうか?そういわれて何か思いだす人はその日が誕生日や何か特別な記念日でない限り、他の行事に結び付けていえる人は稀であろう。斯く言う私も普段は特定の日をそれほど気にしたことはない。しかし、この6月3日は別である。なぜだろうか、2つの出来事が起こった日として脳裏から離れないのだ。一つは1582年本能寺の変。そしてもう一つが1991年。つまり、雲仙普賢岳大火砕流。本能寺の変は分かるとも、雲仙普賢岳火砕流がもう一つに入るというのは意外に思う人がいるだろう。しかし、私にとって雲仙は計り知れないインパクトがあったのだ。
 火山の噴火。1980年生まれの私がリアルタイムで覚えている最初のものといえば、三宅島でも大島三原山でもなく、やはり雲仙なのだ。溶岩ドームが崩れてそれが火砕流となって襲ってくる。そのスピード感を私の身に降りかかってくるものとして想像したとき、子供ながらにとてつもなく恐ろしかった印象がある。そう、あれは1991年の6月3日。ちょうどピッタシ15年前の出来事である。それにわざわざ当てるのも不謹慎なのかもしれないが、独特な雰囲気を味わえるのもこのときだけであるとも言える。すなわち、私はただ雲仙に行きたかったのではなく、2006年6月3日に雲仙を登るということにこだわりたかったわけである。

平成新山の頂上
 前日、宇部から博多入り。そこからレンタカーでだが、やはり遠い。下道で4時間。なにせ、長崎よりも先なのだ。島原半島の先っちょということは認識の外に外れていた。しかし、それはそれ。すばらしい天気予報に気持ちは高ぶる。水無川の大野木場に車を置こうかと思ったが、さらに上流に堰堤工事のための工事路があるようで、そこにうまい具合には入れるのではないかと思ってさらにカーナビを駆使して登ると、果たしてうまくいった。ようやく工事のためにゲートが下りていたところに車を置いて就寝。夜来たときは気づかなかったし、地図には一切記されていないが、ちょうど車を置いたところに仁田峠からの遊歩道が降りているらしい。これで下山問題もすぐに解決。
 さてどこを登るか。とりあえず手持ちの資料である「九州の沢と源流」に「水無川右俣」が紹介されていたからその近くまで来たものの、その本に描かれているのは震災前の姿であってそもそも平成新山という存在が資料にない。見晴らしの良いこの駐車地においても水無川右俣というのがどれであるのかまったくわからぬ。とすれば、ここから登るべきルートは赤松谷をそのままつめて、地図上でも目立つちょうど平成新山と普賢岳の間に突き上げている沢しかない。
 5時前に起きて出発。工事用の道路を緩やかに下っていく。堰堤は越えるでもなく10個連なるとすぐ終わった。さてそこから沢状を登り始めるが、もちろん水はない。ただ、まったく荒れているかというとそうではなく、ただ水が流れていない沢という感じ。また、ときどき草がはえており、火砕流があった痕跡も感じられない。右岸は30mほどの岩壁となって、小ゴルジュ状になってはいるが、それほど暗たい印象は受けないのは、天気が快晴であるためであろうか。雲仙を右手に見ながら登り、赤松谷右俣を目指し、適当なところから右へ行く。そこはいい感じで草原台地となっている。天気に新緑の草原が映え、そしてそのなかに一人たたずめているのは、これだけでも来た甲斐があったというべきなのだろう。
 ちょうど、朝6時にその目指した沢状地形に入った。そのとき、街からはサイレンが聞こえる。ちょうど15年目の日である。特別ではないのかもしれないが、少なくとも何か私を感傷に浸らせるものがある。さて一息入れ、頂上へ登り始める。やはりというかガレ。それがずっと頂上まで続いている。なんだろう、決してそのラインが美しいとは言うまいが、山が、雲仙が“ここを登れ”とあたかも誇示しているかのようだ。そして、その意志に刃向かうことに私は意味を見出せなかった。もちろん、ガレであるから難しくはない。ただの傾斜のあるゴーロ歩きといえばそれまでである。しかし、いい。人工的ではなくただ自由に。そしてこの自由を強制させられる圧迫感。わかるだろうか。この感覚。
 頂上付近。ここから右に行くと平成新山頂上にストレートで無理なく突き上げるライン。しかし、頂上付近は脆そうにも岩壁となって切れ落ちているように見える。左に行けば、普賢岳とのコルに突き上げ問題なくいけそうだ。さて、どっちにいく?
 右へ。というよりも右へという感覚がなかった。まっすぐ行ったのである。頂上を突き上げているラインに。それしかないという本能が私にあったことの証明に他ならないのではない。
 かつて溶岩ドームと呼ばれた頂上付近はやはりドーム状の壁となって切れ落ちているが、よくよく進めば弱点はあるもの。V級以上クライムをするわけでなく、石鎚山で味わったような高度感を味わうでもない。ただ落石を気をつけてヘルメットを被るのみ。ただし、私が晒し者になっていることは自覚でき、それはそれでなんだか緊張するものだ。そう、私を遮るものは何もなく、それは私の卑しい心情さえも見通すかのようで恐ろしい。
 頂上台地はすばらしい。ここにいる限り安全性はまったく心配するところはない。ゆっくりしていると、迷彩色のヘリが上空に旋回し始める。気が小さく、また平成新山が立ち入り禁止であることも認識しているのでなんだか嫌な気分だが、臆せずこの頂上のなかの頂上である穂先へと向かう。穂先はこれほど快晴であるのにガスっている。そう、まだ噴火は終結していないのだ。本当の頂上に登ろうとしたものが何人いるかは知らないが、彼らもきっとそう感じたことだろう。まだ終わっていないことを示すのはガスだけでない。あきらかに岩盤も熱いのだ。登り始め、手が熱くなった。そして体からまるでサウナにいるかのごとく汗が流れ始めた。そして、息が苦しくなった。そして、本当の先っちょへ。頂上台地から穂先まで標高差としては20mほどもないと思われるほど穂先は本当にちょっとした突起なのだが、果てなく長くつらかった。が、この苦しさが「あの」雲仙を登ったという気にさせるのだろう。頂上からは海も街もそして荒んだ岩塔も見える。そしておそらく、私ほどの気概を持った奴ないとこの穂先を登ってこの景色を見た者はおるまい。そんなわけのわからぬ自尊心も湧く。ここは本性を露にさせる点でも危険なところに違いない。
 次から次にヘリが旋回してくるがどうでも良くなった。ただし、この穂先いるのは人体的に怖くなったので、そそくさと頂上台地へ、あとはガレガレを今度は普賢岳へと下る。少し藪漕ぎとなったが、荒れに荒れた昔の道を通って普賢岳まで。
 普賢岳には佐賀から来たというおっさんがいて、これから平成新山に登るという。きっとあの穂先まで行く気はないと思うが、このおじさんは噴火当時よく来たということで話を聞いてみるとやはり生の情報はうれしい。30分近く立ち話して、あとは登山道を仁田峠まで30分。そこから45分で駐車地まで。
 帰りの道からは自分が登ったラインが気持ちよいほどナチュラルで、そして誇らしくもうれしいものに感じられ、その下山路が余韻の浸れる場所だった。
 仁田峠から望んだ雲仙、島原の街並みから望んだ雲仙、フェリーから望んだ雲仙、フェリーの中で流れた雲仙事故から15年を伝えるニュース映像での雲仙、東京に戻って買った火山の本に載っている写真の雲仙。そのすべてが私を余韻に浸らせる。余韻か、最近味わってなかった感覚で、なんともいい。これこそ私が山に求めるものなり。山に何を求めて向かうのか、よく話の題になるものだが、わたしの場合はこれがはっきりした。余韻であると。
 さて少し書いたが私はこのあと島原からフェリーで熊本に渡った。せっかく、九州に来たのだから・・という賤しい感覚で次の日、別府の鶴見岳に向かうためだった。結局、鶴見岳は資料で想像していたものとは悪い意味でまったく違うものであり、まったくガッカリで登りもしなかったが、それにつけても由布岳大崩は見応えがあり、ぜひ次は登ろうと心に誓うのだった。
 何を言いたいのかというと、今回の九州は雲仙に登ったという事実だけでも九州に行った甲斐があったものだが、収穫はこれだけではなかったということである。つまり、由布岳大崩を次なる目標として確信できたことにこの旅行はさらに価値が上がり、うれしいのだ。なぜ山に登るのか、よく人は問うようだが、私なりの答えは“余韻”というキーワードに集約した。しかし、どこを登れば余韻を得られそうなのかがまず難しい。これまでは、何を次に登りたいかということに疑問をもつようなことも多かった。しかし今回、雲仙を登り、そして由布岳を見て明瞭となった。「山がここを登れと誇示するライン」を感じ取り、それを存分に味わうことにより余韻に浸れるのだ。そういうところにこそ行きたい。そしてその中に、由布岳大崩がランクインとなったわけだ。誠に目出度いではないか。
 なんだか偵察という行為は邪道であるとか、時間の無駄だとか実際に自分もそう思っていたが、そうじゃない。確かに記録であれ、小説であれ、地図であれ、写真であれ実際に山に行かなくても、現地に行かなくても、得られる情報は探せば巷に溢れている。しかし、それらで私の心中のうち揺さぶるものはたかが3次元以上のものはないようだ。やはり生の五感をフルに活用して感じ取るものはそれ以上。
 これからは実際に足を運ぶことで、いろいろな山を見てみたい。そして、いろいろな方向から見てみたい。五感で受け取った情報で美しさの感覚を磨くのだ。そうやって磨いた自分の美的感覚を信じろ。感性を大切にしろ。私の美的センスを表現する。大仰な表し方だが、これからは山でこれをやりたいのだ。いや、やるべきなのだ。
 山が物申しているかのラインへ。中島みゆきは「会うべき人に出会えることを人は仕合せといいます」と詠ったが、まったく同じことだと思う。登るべきラインを発見すること、すなわち仕合せ。そして実際に登ることで幸福へと昇華する。人生の冥利につきるのだ。今後の方向性を見極められたところに雲仙・九州ツアーはまさしく非常に意義あるものとなったとこれからも記憶されるいいヒトトキだったに違いない。


【記録】
6月3日(土)晴
 駐車地0500、平成新山0830、普賢岳0900、駐車地1000

2006.6.16 筆