その男とは、2度目の対面だった。今回も同じで、あまりに端正なマスクとスレンダーの中に隠し持った
体のラインからは、並みのクライマーではない空気が漂っていた。
一度目は夏の最後の土曜の昼下がり。メグ山田と猛暑のうだる中基礎クライムを繰り返し、インター
バルのレストの時にその男と出会った。もちろん僕のこと、すぐさま会話になった。その男は二子の弓状
に通いつめているという。12後半、13クラスのレベルという。オヤジがプロの山屋で、幼い頃より山に
親しんでいるらしい。山全般の知識も高く、ひたすら外岩で練習するという姿勢が胸に響いた。
この暑い中一人でロープを張り、ポパイハンガーを練習していた。年は20台前半、あまりに甘いマスク
と素直ないでたち、その男の持つ雰囲気に、この藤坂に似合わない印象がなぜか強く残った。
膝のリハビリに岩トレと称して、なじみの藤坂に向かう。このゲレンデは実に素直な易しめのルートが多い。
チャート系の岩で、全体に傾斜は緩く、いわゆる昔ながらの本番向けゲレンデである。
ちょうど、一人で登り返しを何本かやっていると、駐車場の方から、「おお、やっている、やってる。治田ー」
と怒鳴る輩がいる。誰かなと下のテラスで落ち合うと、加須の練習場でお世話になっている、長谷川爺
であった。爺も一人なのでこちらよりパーティを組むことをお願いし、何本も登りだす。
その男(彼)とは同じくレストのときにばったり会った。岩場の主の斉藤さんと斜向かい話していた。そこへ僕ら
も乗り込んでいった。ドン斉藤が「治田さんの顔を見ないと藤坂の意気が上がらない。膝が悪いぐらいで
いいんでないかい」など膝の経緯を語る。
また、彼とは前回に引き続き高度のクライミング論議(いや僕は聞き役)。
平山が昨日二子に来て、まったく嫌になるぐらいだという。12後半を4,5本やった後にそこをクライムダウン。
腕の太さや背中の筋肉はプロレスラーのようだったという。一日2,30本ハードルートをこなすと言うが
とても人間とは思えないとつぶやいていた。彼がそういうのだ。やはり世界一を2年とった男は人間のレベル
を越えているのだ。
僕もリーチのある人間の腕が太く見えるというのは異常な筋肉量を持っているということ。また、一流は
プル動作やひっかけ状態の中でも、背中の筋肉郡だけでなく、表の胸筋も使っていると話す。だから
こそ上半身全体が引き締まりシェイプされ、使用筋肉がそれなりにバルクアップしてゆくのだ。
ひとしきりの会話から、また練習が始まるが僕は今回は少し、彼の登りを見たいと思った。その容姿から
どんなクライムをするのだろう、興味があったのでポパイハンガーの横に位置づけつぶさに拝見させてもらう。
実に上手い。流れるようだ。動作に無駄がなく体のブレがないのだ。この藤坂にあってこれだけ左右に体
を振るクライムを見たことがない。彼は正対の多い藤坂の岩場も上手く左右のホールドを使いカウンター
やヒールフックまで使いながら、ムーブを作り抜けていくのだ。ポパイは公称11cのルートだが、そこには
そのようなグレードとはまったく読みとれない、楽な簡単な動きで登る彼がいる。
連続4,5本登っただろうか、だいぶ腕も張ってきたようだ。彼は僕に「落ちるまで登りたい、そういう追い込
みでないと力はつかない」と言い放す。まったく同感だ。膝のリハビリで思い切りができない自分が辛かった。
「やってみます?」と彼。一瞬迷うが熱くなってくる自分がいた。「申し訳ないがリードでなくロープを貸してく
れないか」と僕。その昔、10年くらい前か、一回だけここに取り付き、一歩も上がれなかった記憶が蘇る。
たが、今の僕は以前の僕とは違う。ろくにクライムの練習をしなかった過去は忘れて、初心でトライしたい。
見物人は「アルパインと沢の治田さんがどこまでやれるか見もの」と話す斉藤さんと爺とほか数人。
さて、その一歩が恐ろしく難しい。いろいろ試すが可能性なし。彼の真似をする、気合一閃体が浮いた。
やはりムーブだ。続いてクロス。これまた恐ろしく遠い。なんとか次につなげる。「そこからが核心」と彼。
もう彼のムーブは覚えてないし、体も硬いためそんな動作はできない。腕も張ってきたが、まだ余裕だ。
存分にホールドを探し見つめることはできる。ただ、素直な攻めで落ちるとは思えない。
いよいよ勝負だ。右の縦型極小ホールドつかみ、体を右にずらす。そこよりレイバック気味に体を上げて、
無理な体勢から左足をキヨンぽっく固定。そこからは強引なプルアップでガバをキヤッチ。「おお、正対で
攻めるか、驚いた」と声。深い呼吸2発とここでチョークアップでレスト。上部後半戦のラインを読む。
ホールドが浮いて見える。落ちついてムーブを組み立て一気にゴール。
嬉しかった。素直に喜んだ。んーん、でも11cあるとはとても思えない。リードではないので正式には言え
ないが、体感11aあるかないかで、彼にも問うとやはり同じような答えが返ってきた。でも、やはり嬉しい。
その後は当然ながら別々に違うルートで練習再開。先と同じように油断せず黙々と登る、登りまくる。
終了は16:45分。さすがに誰もいない。疲れた体から不思議なくらい充実感がにじみ出る。通いつめた
藤坂であるが、まだまだ課題は見つけられる。その男との出会い、感謝の気持ちでいっぱいだった。