■北ア/鹿島槍ヶ岳北壁洞窟尾根[登攀]

2008.6.14-.15
鮎島仁助郎
 3年前に商大ルートを単独で登った。この商大ルートとともに、わたしが憧れていた場所がもう一つある。それがカクネ里だ。しかも、残雪に閉ざされたカクネ里。そこに独り泊まり、鹿島槍北壁を登る――。これこそが長年の夢であり、目標であった。
 残雪のカクネ里。なぜ、ここか。それはやはり小谷部全助氏を抜きでは語れない。
 昭和10年6月。氏は遠見尾根からカクネ里に入り、鹿島槍北壁右ルンゼを単独登攀した。もっとも、この記録は氏の代表的な二つの冬期初登記録――荒沢奥壁北稜と北岳バットレス第四尾根――と比べると後世の評価は高くないし、すでに忘れ去られた記録になりつつある。それでも、私がここにこだわりたいのは、この紀行文がとても好きだからだ。
 針葉樹8号に収められた記録文「カクネ里」は、きっと氏の代表作とも言える文章なのだろう。それは、後世の史家やクライマーが彼個人の人柄や山に対する思想・姿勢についてを評する際、必ずといってもいいほど、この記録から抜粋していることからでもわかる。氏の単独行への考え方、ならびに山に対する姿勢。それらがとても率直に述べられており、ストレートに心に入ってくる。特に、
『私の終局の理想としてあこがれるのはカンチエジユンガでもない、エベレストでもない。あらゆる山々に一人喰入つて尚且深い自然の囁きに思ふ様胸を躍らせ得る山岳詩人の心境になりたい事なのだ。』
 というところは私はとても大好きなわけで、どうしてもこの心境に追随してみたい。追随するにはこのカクネ里に行くよりほかない、そう思い続けていた。
 何度も計画を立てるが、6月は梅雨の時期。3年が経ってしまったが、前週の越後金山沢奥壁をやり遂げた精神力・体力の余力を生かし、2008年6月14日、大谷原へ向かった。


カクネ里より鹿島槍ヶ岳北壁(赤線は登攀ルート)
 大谷原からカクネ里へ向かう。本来、氏の足跡を辿るだけなら遠見尾根から入るべきだが、休みが二日しか取れぬしがらみ、そして山々は下から登るのが本来の姿だとのわたしの小さな信念に基づき、ここは妥協させてもらった。
 氏が記した大川沢左岸の林道はすでに廃道。今はその痕跡すらない。したがって、沢を溯るしかないのだが、これがけっこう厄介だ。腰ぐらいまである渡渉を何度も繰り返すしかないのだが、この水がとても冷い。もう、本当にイヤになるほど。それもそのはず、上流へ行けば大きな雪のブロックが沢を何度となく塞いでいた。大沢を左岸から流入させるとこのブロックは本格的な雪渓へと形を変え、その上を苦もなく歩いていく。無雪期はこの大沢から白岳沢が難しいようだが、おかげさまで楽勝で通過。10匹程度のサルの群れを気配で追いやると、本当にすぐにそこが白岳沢出合だった。
 この白岳沢との二股のちょっと下に岩小屋があるはず。全助氏が絶賛し、通算5泊以上はしたと思われる岩小屋だ。おぉ、これか。全助が泊まってから73年を隔てた今でも確かに針葉樹8号の記述そのままに岩小屋があった。雪渓から2〜3m上に大岩があって、しかも下地は乾燥している。そしてあまりにも眺望が良くないことまでも・・。氏が二回も泊まったこの岩小屋で私も一夜を明かすのはとても魅力的で、この岩小屋で一晩過ごすのも当初の目的のひとつだった。しかし、しかし・・。このまったくもって面白くない景色。まだ時間は12時前。陽もまだまだ高く、雨も降りそうな天気でもない。あと6時間もここにいるのかと現実的になってしまうと、すこし後ろ髪を引かれる思いはあるけれどもパスすることにした。
 二股を過ぎるとカクネ大滝は雪で隠れていた。もし、滝が出ているとちょっと高巻きに難儀すると氏は書いているが、簡単に越すことができ、これを越せばカクネ里の全貌が見渡せられるようになった。
 「あぁ。これがカクネ里か」
 思わずつぶやいていた。青い空と白い雪渓。それに続く鹿島槍北壁・・。なんとも「ホッとする光景」がそこにあった。
 先ほどの岩小屋のことは頭から捨て、私はここで泊まろうと決意した。カクネ里はほとんどが雪渓で覆われているが、ところどころ地面が露出しているところがあり、その中の一つに、幸いにも自分ひとり用の平地があった。そこだ。雪渓上には雪崩で飛ばされたのであろう倒木があちこちに横たわっており、薪には困ることはない。水も5分ほど下ったところで雪渓にチョロチョロと流れこんでいる。そして、なにより、この絶景―。
 白昼の雪渓に浮かぶ平地上。全助の書いた「カクネ里行」を声に出して朗読する。燃え盛る火を傍らにしてブランデーを嘗めつつ。
『雪に満たされた圏谷の眞中をとぼとぼとたつた一人登る氣持〜』
 あぁ、俺は来たぜ。独りで雪に満たされた圏谷に来たぜ。自分はちょうど全助が味わったであろう状況――6月の雪に閉ざされたカクネ里に独り――にある。静かだ。人工的なものはひこうき雲だけ。空は青い。雪渓はまぶしい。そして北壁はとても潔い。吾も些かの不安も無く、焦慮もなく、彼らを打ち眺める。これこそ贅沢なヒトトキ。これを幸せといわずに何をば言わん?。安らかだ。とても安らかだ。
 あぁ。きっとこれが「山岳詩人の心境」なんだろう。今、前に横たわっているのは目で受け取る三次元の世界だけではなかった。耳で静寂の音を聞き、鼻で安堵の匂いを嗅ぎ、皮膚で自然の柔らかさを感じ、舌で優雅な時間の流れを味わう。五感をフルに活用して、心の中に四次元、いやもっとすごい異次元の世界を作り出していた。そこにこそ、山岳詩人の棲家があるのだ。

 夜は寒かった。風が終始、雪渓上を吹き抜け、焚き火も燃え尽きてしまった。さすがに、シュラフカバーだけだと身に堪え、ちょっとウトウトしただけであまり眠れぬ。しかし、月光ってこんなに明るいんだなぁ。逆に、深く眠れないことで得した気分になってしまった。
 3時半に起き、朝飯を食べ、片付けだす。そして、「雪に満たされた圏谷の眞中をとぼとぼとたつた一人登」り始める。
 朝方の雪渓は固い。昨日来たときはアイゼンも必要とは思わなかったが、さすがに中の沢を左岸から入れる場所までくると、傾斜も強くなり、ちょっと怖い。そこでアイゼンをつけることにした。
 当初は全助が単独で登った鹿島槍北壁の右ルンゼに行く予定だった。しかしそれに行くためには奥の雪渓まで行かねばならぬ。しかしどうだ。雪渓は上部に行けば行くほど、ズタズタに切り裂かれているではないか。これは・・・ムリそうだ。しかし、その年7月に鷹野氏と登った洞窟尾根は何とかいけそうである。右ルンゼにいけないのは残念だが、これに拘って怪我をしてもしょうがない。
 取りつきでアイゼンを脱ぎ、靴もクライミングシューズに履き替える。まず洞窟の右のすっきりした壁(V級)を15m登ることから洞窟尾根の登攀は始まる。洞窟尾根の概要はこうだ。
@洞窟の右の壁を15m登る。
A左へ10mトラバース。
B木を伝って20m登る。
C左側の草付ガリーを30m登るとリッジ。
Dリッジ上は雪のブロックが乗っているのでアイゼンをつけなおして、3m雪壁を登る。
E20mのナイフリッジを進むと再び雪がなくなる。
Fクライミングシューズへ履き直して、草付スラブを登り、P1を左から巻く感じで登る。
G続く小ピークも左から巻く感じで岩登りするが高度感がある。
H再びリッジに出ると、P2の圧倒的な壁が目前となるが、そこを右から巻くような感じで登る。
I草付・潅木を伝い、あとはブロックを避けながら、右へ左へ簡単なところを選んでいくと、国境稜線。
 こう書くと簡単そうだが、だいたいがもし落ちたら『ハイ、左様なら』なわけで、「生」を実感できた有意義な2時間だった。しかし、この洞窟尾根について全助は『簡単』だとか『エスケープとして活用できる』とか書いていたけれど、精神的にはそうとは思えず、修行不足を痛感する。しかも、どう見ても彼が登った右ルンゼのほうが明らかに難しそうだ。
 終了点の登山道にて余韻に浸りながら、ゆっくりとゆっくりと周囲を見渡す。あぁ、剱がきれいだ。白馬も五龍も全部きれいだ。限りない空に広がる光の散乱とまだ白をまとった山々たち。ピーピピとまわる色とりどりの飛翔たち。山っていいなぁ。大自然っていいなぁ。彼らの親身なる一瞥を確かに受け取りながら、私は一歩一歩、鹿島槍の頂上へと足を踏み出して行く。
 全助氏はやはり偉大だ。私は天気も快晴かついい装備で向かったが、結果的にも右ルンゼも登れなかった。しかし、悔いが残っていない。確かに、カクネ里からの写真では洞窟尾根は北壁の部類にも入らぬ横っちょの小さな尾根だ。しかし、あの条件下、北壁は無理だろう。それに洞窟尾根も彼らが登ったところなのだ――。
 私はこれまでにも、白山大畠谷奥壁、越後佐梨川金山沢奥壁、伯耆大山南壁、会津御神楽沢奥壁、一ノ倉沢本谷・・・、本当に素晴らしい大パノラマを見てきた。しかし、このカクネ里からの鹿島槍北壁―。たまらぬ。順位付けなど意味を成さないかもしれないが、色眼鏡も適ってNo.1だ。なにしろ、思い入れがまったく違うのだから。あぁ、カクネ里。あぁ、カクネ里。
 この実行までの3年間は楽しい日々であった。そして、この余韻もまたいいものであること。
 商大ルートもこのカクネ里も間違いなく私の会心山行の一つである。あのような立派な文章を残してくれた氏に心より感謝申し上げたい。
 次はやはり荒沢奥壁北稜であろうか、冬季バットレス4尾根であろうか・・。これ以上に気合を入れる必要があろう。あぁ、そしてこれからも、このときの感覚を何度も味わいたいものだ。

 なお、この土曜日。私が大谷原を出てからすぐ、東北で大地震があったらしい。もしこれが北アルプスだったらと思うと、単独行だっただけにすごい恐ろしさを感じた。私も単独行は嫌いではないけれども、何かと考えさせるものだ。

2008.6.16 鮎島 筆
2008.9.2 鮎島 加筆

【記録】
6月14日(土)快晴
 大谷原0830、荒沢出合0930、白岳沢出合1200、幕営地1215
6月15日(日)快晴
 幕営地0445、洞窟尾根取付0700、稜線0900、鹿島槍ヶ岳南峰1000、冷池小屋1100、大谷原1315

【使用装備】
 沢靴、アルミアイゼン、クライミングシューズ、ビバーク具

【写真】
白岳沢出合の岩小屋 雪渓上部からカクネ里を見下ろす 洞窟尾根のブロック


【おまけ】針葉樹8号より
『雪に満たされた圏谷の眞中をとぼとぼとたつた一人登る氣持。如何に危険であり合法的でないと非難されようとも到底私はやめる事が出来ない。危険なる誘惑。実際單独行ほど、山が、大自然がしみじみと親身に囁き迫るものはない。かゝる程度の山に馴染み、淋しさや恐ろしさに麻痺して了つた私だからかも知れない。純白の氷雪に包まれた八千米のたゞ中においても尚私はたつた一人でかゝる心境になつて、冷いそして死せる処女のように潔い壁を心ゆく迄打眺めていたい。些かの不安もなく、焦慮もなく。マンメリー主義もそれのみならば私にとつては技術の進歩、征服欲の満足以外大して価値あるものとは思はない。私の終局の理想としてあこがれるのはカンチエジユンガでもない、エベレストでもない。あらゆる山々に一人喰入つて尚且深い自然の囁きに思ふ様胸を躍らせ得る山岳詩人の心境になりたい事なのだ。それは余りにも遥かなもの、現実と離れた空想かもしれない。私は時々このお伽噺のような光景を夢見る、フェーラーたちの屯する最後の根拠地――それは氷洞だつた――から一人ヨーデルを口ずさみ乍ら恰も羽の生えたように頂へ向かふ私を・・・・・・。
 実際問題として兎に角、私は先づ第一に個人として十分立派なマウンテニヤーの資格を飽くまで獲得したい。』